昭和9年(1934年)当時貧困に喘いでいた多くの韓国同胞同様、私達のハルモニ(祖母)もハルボジ(祖父)を病で亡くし生活には困窮していたようです。唯一の肉親である姉が嫁いだのをきっかけに息子と二人で韓国済州島を後にし、新天地を求め大阪・鶴橋へとやって来ました。ハルモニ32歳の時です。当時の日本も満州国建国宣言に伴い多くの日本人が大陸に渡ったりと、まさに世界中が激動の時代でありました。鶴橋界隈に安い間借りを見つけ、暫くは近くの飲食店の賄婦をやっていたようですが、この界隈に居住する多くの同胞が着慣れたチョゴリを求めていることに着目し、やがてチョゴリの行商を生業とするようになる。生地は当時の高級品であるレース刺繍素材を仕入れた。これは勿論日本製である。
ハルモニは創業当初から安易な出来合いの物を売ることを嫌い、手間が掛かっても一着づつ客に合わせて仕立てた。仕立てには故郷にいる時からチョゴリを縫っていた熟練者を探し、縫い子として専属に使っていた。こうして、ハルモニは日本各地に散らばる同胞の元へチョゴリを売り歩く。信心深いハルモニはこの時に必ず、その土地の神社・仏閣にお参りしたといいます。その甲斐あってか次第に顧客を増やし、1948年(昭和23年)現在の御幸通商店街(通称コリアタウン)に店を構え「白山商店」の礎を築いた。
やがて一人息子も成人し、医師としての道を歩き始めた昭和27年(1952年)近くの大きなゴム工場の娘を嫁として迎えた。私達のオモニ(母、当時20歳)です。
オモニはハルモニの仕事を手伝いながら8人の子供を育てる。当時は日本人社会でも子沢山は普通でどこの家庭でも5〜6人は当たり前のようでした、とは言え子供の世話をしながらハルモニの取ってきた注文を聞き、縫い子さんのところへ走り、出来上がったチョゴリのチェックや生地の仕入れ。また或る時はハルモニについて行商に行ったりと次第にチョゴリ屋としてのイロハを覚える。
「手間が掛かっても良いものを提供する」と云うハルモニの信条も同時に叩き込まれたと言う。この事は50数年経った現在の「白山商店」でも受け継がれています。
昭和43年(1968年)ハルモニが他界。オモニ36歳の時「白山商店」の2代目を受け継ぐ。
良い素材を選び、仕立て、手間の掛かる工程を経て注文を仕上げると云うハルモニの「教え」を守り懸命に家業を継続していくが、女手一つでは如何とも仕様が無く徐々に販売形態も行商から店頭販売に変わっていく。折りしも日本は高度経済成長の最中にあり、色んなモノが溢れ返るように店先に並ぶようになる。チョゴリも例外ではなく大量生産による既製品が手軽に購入できるようになると、手間の掛かる仕立て品は「高い」「遅い」と敬遠されるようになり、ハルモニの信条である「手間が掛かっても良いものを提供する」と云う理念は受け入れられなくなってくる。また、チョゴリそのものも韓国人が着る機会が少なくなって来ました。
やがて8人の子供達も成長し、それぞれ社会人として巣立っていくようになると、オモニの肩の荷が半分降りたようなもので、規模は小さくなったが依然として、ハルモニの「手間が掛かっても良いものを提供する」と云う「白山商店」の理念を守り、良い生地を探し、腕の良い縫い子を探し相変らず「手間の掛かるチョゴリ」の注文を受けています。1975年(昭和50年)に長男の許へ私が嫁いで来て33年、ハルモニが息子と二人で済州島を後にしてから74年。現在でもオモニと二人で。「手間が掛かっても良いものを提供する」と云う理念を守り、チョゴリをそして韓国の民族衣装を作り続けています。
美しい日本の素晴らしいシステムと、在日の暖かい人達のお陰で今日まで頑張って来れました。
今後とも温かいご支援を宜しくお願い致します。
|